メトネル、魅惑の暗い泉
有田 栄(音楽学)
ロシア音楽史の壮大なタペストリーに輝く珠玉の作品を集めた、〈ロシアの玉手箱〉シリーズ。いよいよ3つ目の箱を開ける時がやってきました。箱の中身は、ニコライ・カルロヴィチ・メトネル(1880~1951)。このシリーズの中でこれまでお聴きいただいてきた、チャイコフスキー(1840~93)、パブスト(1854~97)、ラフマニノフ(1873~1943)ら、ロシアの偉大なピアニストたちの系譜に連なる人物です。
ところで、「チャイコフスキーやラフマニノフは知っているけど、メトネルって誰?」と思われた方もあるのではないでしょうか。確かにこの名は、一般にはあまり馴染みのない、「知る人ぞ知る」的な名前といえるかもしれません。
音楽史とは気まぐれなもので、流行の真っただ中にいる「時代のリーダー」や、反対に流行に逆らって才気を放つ「鬼才」を強く記憶に刻む一方で、時流から一歩退いて「不易流行」の真理を追究し、それゆえ決して目立つ存在ではない人々や作品を過小評価する傾向があります。いまや古今東西の膨大な情報をたやすく手に入れられる時代。そんな現代に生きる私たちが、「歴史」に対してできることは、華やかな音楽史にともすれば見過ごされてきた「本質的な」音楽――すなわち時空を越えてその真価を保ち続けるようとする音楽を見出し、「玉手箱」の中に大切に掬い取っていくことではないでしょうか。メトネルは、まさにそうした「音楽史の宝」のひとつなのです。
メトネルが生まれ育ったのは、19世紀末のロシアの 首都。数々の優れたピアニストを育てたモスクワ音楽院で、パブストや、サペールニコフ、サフォーノフらの名手に学びました。二十歳の時、音楽院を金賞を得 て卒業した彼の前には、明らかにコンサート・ピアニストとしての道が開けていました。しかし、彼が自分の天命として選んだのは作曲だったのです。音楽院で アレンスキーやタネーエフらに和声学や対位法を習ったことをのぞけば、ほぼ独学に近かった作曲を、なぜあえて志したのか。その真意は知れませんが、さまざ まな資料からただ一つ確かなことは、以来メトネルはまるで「信仰」ともいえる揺るぎなさを持って、そして「聖職者」のようなストイックさをもって、作曲に 身を捧げたということです。演奏会を開くとすれば、それはあくまで自作を披露するため。実際には卓越したピアニストであったにもかかわらず、演奏活動で名 を上げることには一切興味を示そうとしなかった、と言われています。
そんな彼の作品に惚れ込み、賞賛したのは、ユゼフ・ホフマンやラフマニノフなど、同世代のピアニストたちでした。とりわけラフマニノフとは生涯個人的に 大変親しくしており、メトネルに仕事がなく困窮していた時期には、ラフマニノフが演奏会を御膳立てするなど、彼の公私を支えていました。
しかし同業者からの賞賛に反して、当時の聴衆は必ずしも彼を評価しませんでした。ロシア革命の数年後、そもそも革命というものに全く共感できなかったメ トネルは、一足先に亡命したラフマニノフたちの後を追い、妻と共にロシアを出国します。当初移り住んだベルリンや、その後暮らしたパリの聴衆は、ロシアの 新しい政治体制に興味津々な一方で、「古き良き時代」を髣髴させるメトネルにはひどく冷淡でした。それもそのはず、これらの都市には当時すでに新しい前衛 的な芸術が芽吹き、未来派、ダダ、シュルレアリスム、そして音楽では無調や十二音音楽の風が吹き抜けていたわけです。メトネルをあたたかく歓迎したのはイ ギリスで、彼はそこに安住の地を見出し、後半生を過ごすことになります。晩年には、病気のため公の演奏活動を断念せざるをえませんでしたが、インドの豪族 の援助でメトネル協会が設立され、彼自身の演奏による録音が残されました。
メトネルには、音楽とはこうあるべき、という堅い信念と「美学」がありました。そのため時には、同時代の潮流に対して苦言を呈することも厭いませんでし た。聴衆が好むわかりやすい音楽は、ともすれば底の浅い、それゆえすぐに消費されてしまうものになりがちです。逆に、新しさや奇抜な表現だけを追えば、今 度は目先にとらわれて、何のための芸術かを見失うことになります。メトネルは、そのどちらも良しとせず、聴衆の耳目に訴えるような音楽にも、またモダニズ ムの音楽にも、まったくくみしませんでした。
もっぱらピアノのみを表現の器としたこと、そして今夜お聴きいただくような「性格的小品」(詩的な題名を持つ小品)を多く作曲したこと、またその流麗な 筆遣いから、メトネルはしばしば「最後のロマン派」と位置付けられています。しかし彼は決して「形式の器にこれでもかと情感を山盛りにする」タイプではな く、むしろ冷めた形式主義者であり、作曲家としても演奏家としても、音楽の構成と構造の明確さを何よりも重視する音楽家なのです。
立体的に組み合わされるいくつものメロディ・ライン。複雑に絡み合い、蠢くリズムの律動。繊細な陰影を湛えて移ろうハーモニー。これらの相互作用によっ て、メトネルの音楽は、まるで底なしの暗い泉を覗き込むような深遠な響きを生み出します。けれども、この響きの深淵に引き込まれ、小さな万華鏡を一心に見 つめるような視点で覗き込んでしまうと、あっという間に作品の世界は崩壊してしまいます。むしろ、無数の極彩色の縦横の糸を絡めながらも、全体として一つ の明確なテーマを織り出すことができる「つづれ織り」のような「音の糸」の扱い――すなわち音がどんなに複雑になっても、たえず冴えた耳で全てを見透す明晰さが必要なのだ、と有森さんは言います。それがメトネルの難しさであり、魅力なのだと。
◆主題と変奏 作品55
メトネルが五十代のはじめのころ、1932~33年に書かれた作品。古来「変奏曲」は、「完全なる音楽家」としての能力、つまり作曲と演奏の技量を二つながら示すことができるジャンルです。偶然か必然か、ラフマニノフがかの《コレルリの主題による変奏曲》(1931)や《パガニーニの主題による狂詩曲》(1934) を書いたのも、この曲と前後するほぼ同時期のこと。しかしこれらの作品をそういう目で比較してみると、二人の音楽に対するスタンスの違いは明らかです。ラ フマニノフとは対照的に、メトネルは、目も眩む超絶技巧を披露するというよりは、あくまで各声部の複雑な絡み合いや、半音の響きの変化を描き出すことに心 を砕いています。同時代の盟友二人の音楽の共通点と相違点が、はからずも浮かび上がる作品です。
◆《忘れられた調べ》第3集 作品40
メトネルは、1919~22年ごろ、三十代の終わりから四十代のはじめにかけて、「忘れられた調べ」と題する曲集を3つ編んでいます。いずれも「歌」や「踊り」を標題とする作品ですが、実在の歌や舞曲を具体的に参照しているわけではありません。
この第3集は「舞曲集」。規則的・拍節的なモチーフ(時に5拍子、7拍子のような変拍子を持っています)と、自由で幻想的な部分とがなめらかに交代していきます。
第1曲はメランコリックなメロディ・モチーフに基づく「ダンツァ・コル・カント」(歌のある踊り)。第2曲は「ダンツァ・シンフォニカ」。第3曲「ダンツァ・フィオラータ」(花の踊り)は、まさに題名の通りの色とりどりの響きに満ちた流麗な音楽。シンフォニックな行進曲のような第4曲「ダンツァ・ジュビローザ」(喜びの踊り)、第5曲「ダンツァ・オンドゥラータ」(波打つ踊り)に続いて、第6曲は、古代ギリシャのディオニュソス賛歌「ディテュランボス」をその名に持つ「ダンツァ・ディティランビカ」。
◆《おとぎ話》
一見シューマンを思わせる「おとぎ話」というタイトルは、先の「忘れられた調べ」同様に、メトネルが好んで用いた標題です。1905年の曲集を皮切りに、この標題をもつ曲は全部で38曲あります。それら一連の「おとぎ話」は、ラフマニノフ、プロコフィエフ、ホロヴィッツといった錚々たるピアニストたちにも演奏会のレパートリーとして取り上げられてきました。古今の名手たちの心をとらえた、その底知れぬ魅力の泉を、どうぞご堪能ください。
はじめにお聴きいただくのは、1921~24年に書かれ、「ロシアのおとぎ話」の副題を持つOp.42の曲集から。つづいて1928年のOp.51の曲集から3曲。この曲集にささやかに添えられた「シンデレラと馬鹿のイワン(有名なロシア民話の主人公)に」という献辞が心をくすぐります。
かわって、1910~12年ごろに書かれたOp.26の曲集からの1曲と、1909年のOp.20の曲集から2曲。Op.20-2には、「カンパネッラ」という副題がついています。
最後の2曲には、添え書きがあります。革命前後の1916~17年ごろに書かれた曲集Op.35の第4曲には、シェイクスピアの戯曲『リア王』の一節。王が城を締め出され、絶望の中で叫ぶ台詞「吹け、風よ、頬を砕くほどに!」が記されています。同時期のOp.34の第4曲には、メトネルが生涯傾倒していたロシアの詩人プーシキンの作品から「あるところに、貧しい騎士がおりました」という一節が引用されています。